パンデミックが起きる前に、科学は何を準備できるか

新しい感染症が広がったとき、最初に必要になるのは、その病原体を知ることです。

どのような遺伝子を持っているのか。どのようなタンパク質を作るのか。そのタンパク質はどんな形をしていて、どのように働くのか。そこから治療薬やワクチンの標的を探していくことになります。

今回Natureが紹介したのは、こうした研究を感染症が起きてから始めるのではなく、平時のうちに少しでも先へ進めておこうという取り組みです。

AlphaFold Protein Structure Databaseに、ヒトに感染するウイルスを含む23のウイルス科から、8,000を超えるタンパク質複合体の予測構造が追加されました。同時に、感染症への備えを目的とした「pandemic preparedness portal」も立ち上げられています。

AlphaFoldによるタンパク質構造予測自体は、すでによく知られています。今回気になったのは、AIの予測能力そのものというより、それを使って次の感染症に備える情報基盤を平時から作ろうとしていることです。

タンパク質一つではなく、その組み合わせを見る

ウイルスのタンパク質は、一つだけで働くとは限りません。

複数のタンパク質が組み合わさることで機能するものも多くあります。今回の取り組みでは、約2,800種類のウイルスから4万を超えるタンパク質配列を調べ、同じタンパク質同士、あるいは異なるタンパク質同士が作る複合体の構造を予測しています。

ここには、AlphaFoldの使われ方の変化も見えます。

これまでの「一つのタンパク質はどんな形をしているのか」という問いから、「タンパク質同士がどのように組み合わさって働くのか」というところまで、予測の対象が広がっています。

もちろん、予測したものがすべて使えるわけではありません。

記事によれば、約4万のホモ二量体と約170万のヘテロ二量体を予測したものの、データベースに収載できる精度と判断されたのは、そのうち8,000あまりでした。

糖鎖など予測に含まれていない要素もありますし、ウイルスのタンパク質には二量体より大きな複合体として働くものもあります。最終的には実験による確認も必要です。

AIがウイルスの仕組みをすべて明らかにした、という話ではありません。

むしろ、実験で何を確かめるべきかという候補を、これまでより早く、大量に準備できるようになってきたと考える方が近そうです。

感染症が起きる前に、研究の出発点を作っておく

今回の取り組みで面白いのは、ここです。

パンデミックが起きてから、病原体について一から調べ始めるのではない。

既知のウイルスについて構造情報を蓄積し、それを世界中の研究者が使える状態にしておく。次に感染症の問題が起きたとき、その情報が研究の出発点になるかもしれません。

これは少し「備蓄」に似ています。

感染症への備えというと、ワクチンや医薬品、製造設備などを思い浮かべます。しかし、科学には情報の備蓄もあります。

すぐに治療薬になるわけではなくても、病原体について事前に分かっていることが多ければ、次に何を調べるべきかを考えるまでの時間を短くできる可能性があります。

AlphaFoldのデータベースは300万人以上が利用しているとされます。そこに感染症研究に使える情報が積み上がっていけば、AIは一つの研究を支援する道具というだけではなく、多くの研究者が共有する研究基盤の一部になっていきます。

これまでAIと科学の関係では、「研究をどれだけ速くできるか」に注目することが多かったように思います。

今回の取り組みを見ると、もう一つの使い方が見えてきます。

まだ起きていない問題に対して、どこまで先回りして研究の準備をしておけるのか。

パンデミックそのものを予測することは難しくても、起きたときに科学が動き始める場所を、少し先に作っておくことはできるのかもしれません。

今回参考にした記事はこちらです。

https://www.nature.com/articles/d41586-026-03022-1