博士の数を増やす前に、誰が育てるのか

日本の研究力を高めるためには、博士人材を増やさなければならない。近年、そうした議論を目にする機会が増えました。博士課程への進学者数や博士号取得者数は、研究力を考えるうえで確かに重要な数字です。

ただ、その数字を増やす前に、もう一つ考えるべきことがあるのかもしれません。博士課程に学生を受け入れた大学は、その人をどのような研究者に育て、何をもって博士に値すると判断するのか。今回参考にした記事は、日本の博士課程が担うべき二つの責任を、大学の外へ委ねているのではないかと問いかけています。

一つは、博士課程の学生の身分と生活を、学生本人の負担に委ねていること。もう一つは、学位を与える判断を、査読論文の本数や外部の査読者に委ねていることです。

支援の不足ではなく、育成責任の所在を問う

日本では、博士課程の標準修業年限を超えて研究を続ければ、授業料や生活費の負担が重くなります。必要な単位を取得した後に大学を離れ、学外から博士論文の完成を目指す「単位取得退学」という仕組みも、この負担を回避するために生まれた側面があります。

しかし、制度上は退学しているのに、実際には同じ研究室で研究や指導が続くこともある。大学との関係が切れているようで切れていない、曖昧な状態です。

問題は、研究に時間がかかることだけではありません。長期の観察、フィールドワーク、資料の発掘、失敗を伴う実験など、研究には制度上の年限に収まりにくいものがあります。その時間を誰が支え、誰が進捗を確認し、どこまで育成に責任を持つのか。その仕組みが十分に設計されていないことに、より深い問題があります。

学生個人への経済的支援は必要です。ただ、資金を学生へ渡すだけでは、大学や博士プログラムの育成責任が自動的に生まれるわけではありません。誰を受け入れ、どのような訓練を行い、どの段階まで責任を持って支えるのか。博士人材政策には、支援額と同時に責任の単位を設計する視点が必要です。

論文を数えることは、研究者を見ることではない

もう一つの問題は、学位審査です。日本の一部の博士課程では、博士論文を提出する条件として、筆頭著者の査読論文を一定数求めています。基準を数字で示すことには、審査の恣意性を減らす利点があります。

ただ、査読論文の本数と、博士としての能力は同じではありません。個々の論文が学術誌への掲載に値するかを判断する査読と、候補者が自ら問いを立て、研究を設計し、結果を一つの知として組み上げられるかを見る学位審査は、重なる部分はあっても別のものです。

数が揃っていても、独立した研究として一貫していないことはあり得ます。逆に、まだ論文として掲載されていなくても、博士に値する新しさや深さを持つ研究もあるでしょう。その違いを見極めることこそ、本来は学位を授与する大学の仕事です。

中身を見る審査には、どうしても判断の難しさが伴います。だからといって数字に置き換えるのではなく、複数の教員が一定の独立性を持って候補者の問い、方法、進捗、失敗、独創性を見る仕組みが必要になります。求められているのは、主観をなくすことではなく、一人の主観に閉じない審査を設計することなのでしょう。

日本の研究力低下を考えるとき、博士号取得者の人数や論文数は分かりやすい指標です。しかし、数を増やすことと、独立して問いを立てられる研究者を育てることは同じではありません。

博士課程とは、学生が個人の努力で通過する長い試験ではなく、大学が責任を持って研究者を育て、その成長を自ら見極める仕組みであるはずです。博士の数を増やす前に、誰が、何を、どこまで引き受けて育てるのか。日本の博士人材をめぐる議論には、その問いがまだ十分に組み込まれていないように思います。

今回参考にした記事はこちらです。

https://kaz-ataka.hatenablog.com/entry/2026/07/19/015456